こげパパ雑記

アラ還おじさんの雑記です。思いついたことを書きなぐります。

音楽のこと ~その1~

物心ついて最初の記憶は、シューベルト交響曲第8番「未完成」だった。その曲がかかると泣いていた(らしい)。

次の記憶は、病院の待合室でずっとかかっていた「白鳥の湖」。待っている間、何をされるのだろう、きっと痛いことされる、と考えて聞いていた曲だから当然印象悪い。

小学校にあがると音楽の授業でハーモニカを吹かされた。苦痛だった。このあと4年生になるまで音楽の授業は苦痛でしかなかった。

この頃(小1)から歌謡曲を聞くようになり、好きな歌を口ずさむようになった。最初に聞いた歌謡曲はなんだっだだろう?ピンキーとキラーズ恋の季節」、『オラは死んじまっただぁ~』で始まるザ・フォーク・クルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」、石田あゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」などなど。そうそう、「黒猫のタンゴ」も流行ったなあ。皆川おさむと友だちになるとは、この時は予想だにしないが。

学校では「流行歌禁止」の掟があった。授業中じゃなくても教室内で(廊下でも、だったかも)流行っている曲を歌ったらダメ、というルールだった。自分の担任だけだったのかその学校全体なのか、はたまた自分の住んでいた地域がそうだったのか今もってわからない。とにかくそういう決まりがあって、ある日教室内で何気なく当時ヒットしていた「老人と子どものポルカ」を、『やめてけれ、やめてけれ、やめてけーれズビズバ』と歌っていたら担任に、「こら○○、そんな歌をうたって」と見つかり、小1時間後ろに立たされた。

通っていた小学校は、下校時間になると毎日同じ曲を校内放送で流していてた。何曲もあって日によってかかる曲が違ったりするが、全体では同じ曲だった。これが、病院の待合室で聞いてブルーになっていた「白鳥の湖」を作曲したチャイコフスキー組曲くるみ割り人形」だとは、当時はわからなかった。ただ、何とはなしに心に引っかかっていた。

 

小学校4年になる時、親が突然「エレクトーンを習ったら?」と言ってきた。音楽が得意でもないし、たいして興味はなかったが親に逆らうほどの度胸もなく、「ウン」と頷いてしまった。教室に行ってみるとまわりは女の子だらけで、ますます気乗りしなかったがレッスンが数回続くうち、面白い!という感覚が来た。家にはエレクトーンなどあるはずもなく、親がどこかから譲り受けてきた足踏みオルガンがあるだけだったが、自分から練習しよう、という気持ちになったことを今でも覚えている。やがて5年生の後半には音楽教室の中でもまあまあ弾ける方になっていた。

不思議なもので、音楽全般、ハーモニカも鍵盤ハーモニカも歌うことも苦手だった自分が、エレクトーンを習うことでピアニカは楽勝、歌うことも得意になっていき、5年生では音楽専科の先生に誘われて校内の合唱団(部活ではないが年一度の行事に向けて練習する)に入ったりした。6年生からは、音楽教室で習っていた先生に個人レッスンを受けるようになり、しかも親が大枚はたいてエレクトーンを買ってくれたこともあり、飛躍的に(自分ではそう思った)上達するようになった。

エレクトーンで弾く曲は、いちばん初めは「カッコー」とか「アマリリス」とか、8小節程度の右手だけで弾く曲だったが、6年生の時点でプロコルハルムの「青い影」やバート・バカラック「恋よさようなら」「雨に濡れても」「遙かなる影」などを弾いていた

それと軌を一にして洋楽に目覚めだした。ちょうどラジオにも興味を持ちだし、6年生では親に隠れて深夜放送も聞くようになっていたので、いっそう洋楽に対しての関心はふくらんだ。

一方、日本の歌謡曲もあいかわらず聞いていた。

奥村チヨ「終着駅」、加藤登紀子「愛のくらし」、ちあきなおみ喝采」、山本リンダ「どうにもとまらない」、沢田研二「危険なふたり」

 

そして、今の自分につながる転機が6年生の10月にやってくる。前述した小学校の合唱団で「市内音楽発表会」という行事に参加して何曲か歌ったのだが、その発表会のトリをつとめたのが翌年入学するはずの中学校にある吹奏楽部だった。吹奏楽コンクール北海道大会で金賞を獲りました、というその吹奏楽部がチャイコフスキー(またしても!)の「交響曲第4番第4楽章」を演奏し始めた途端、衝撃が走った。圧巻の演奏だった。「すげぇー」と言ったか言わないかは忘れたが、ほんとに口を開けて見ていたと思う。この日の帰りに、「来年中学校に行ったら吹奏楽に入る」ことを決心したのは言うまでもない。

                                    つづく